金と暴力
とてもとても久しぶりに、OL時代の同僚に会ってきました。
彼女は、私と同年代で出版社に勤めています。問題意識の高い人で、一緒に働いている時も少年犯罪についてなど、OLらしからぬ会話をしたっけ。
あれから今日までの4年間、彼女は新しい職場で、正社員と契約社員や派遣社員の格差を痛感し、仕事に対する意欲を失っていました。
「世の中、力のある人の思い通りに流れるように出来てるんだよね」
と話す。私はその通りと思いながら、じゃあ今自分がやろうとしていることは一体何なのだろうと考えてしまうのです。
更に彼女は冷静に、
「考えている人はいるだろうけど、自分の生活の方が大事って言う人の方が多いだもん。結局はさ、係わり合いにならないのがいちばんってことなんだよね」
おっしゃる通りです。人は、当事者にならないと思考しないものなのかもしれません。
彼女は、取材をしている私より、よっぽど冷静に世の中を見ていると感じます。
だけど私は、何がヒトゴトで、どういうことなら自分が当事者になるのか区別がつかない。人はみんな弱くて、いつでも当事者になり得ると思うから・・・。
友人と私は、政治やニートの話をしながら、このままじゃいけないと思いつつ、でも2人ともその言葉を出さずに、ただため息をつきました。
「結局はどういう組織でも、そこで一番の長の言う通りにしかならないんだよね」
私と一緒に仕事をしている時の彼女は、そういう中でも自分の実力を最大限に発揮しようと躍起になる人でした。今の彼女のこの言葉は、完全にあきらめモードです。
あきらめている友人の顔から視線を逸らし東京の町を見下ろすと、嫌というほどいっぱいの人。
この人たちは、「どうせこんな世の中なんだから」とあきらめている人ばかりなのだろうかと、ふと考えてみる。昨日までの私は、もっと良くするためにはどうしたらいいかと考えている人が大勢いると信じていました。
だけど、今日の私は「お前に係わり合いたくはない」攻撃に打ちひしがれています。「あきらめようか・・・。いや、あきらめたくない、負けたくない」という葛藤の渦中にいながら、友人の言葉に世の中ってそんなものかという現実を見たような気がしました。私ひとりのちいさい声は届かない・・・。
「金と暴力なんだよ。結局、金と暴力で世の中が決まるんだよね」
と友人は言って、それを聞いた私の体から力が抜けていきました。お子さんにはとてもお聞かせできない夢のないお言葉。でも否定できないんですよね。
こんな世の中をあきらめたり、無関心でいたりして、安定した生活を大切にすることを否定したりはしない。だけどカッコいいとも思わない。
じゃあ、私がしていることは?私は無駄に熱いのか?
別にかっこ悪くたって気にしない。打ちひしがれてもいい。孤独になってもいい。私は私らしくありたい。
そんな風に強く言えるだけの力が欲しい。仲間が欲しい。金にも暴力にも頼りたくない。
<文責/泉 あい>
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コメント
ニートに関しては、放置も一つの改革の通り道だと考えてみてはどうでしょう。
無駄の多い国から効率的な国へ至る道は二通り有ります。全員が効率的に変わるという道を着実に経て辿る方法と、一部を無視して部分を効率的にして、無駄側を効率側の中に少しずつ組み込んで行く道のりと。前者の道は橋本・小渕が失敗している。
財政危機にある日本にあって、親の財産を食い潰してくれるニートなる存在は、凍結資産を市場に流すことに貢献してくれています。なにより自発的に。郵政民営化には規模として到底及ばないにしても。
医療費や生活保護・年金を切りたいが、容易に切れば生存権を脅かす。親の資産を切り崩せる家庭が散財を進めてくれていることは、金の使い方を知らない貯金好きの仕事人間世代から、余裕のある家庭のみをピンポイントで資金の市場流出を助けてくれている。政治的にも有り難い存在であり、政府ももうしばらくニートには増えてもらいたいのではないでしょうか。相対的にその家庭が好ましからぬ状況になるにしても。どうせ働いても税収に貢献できるほどの高収入を得ることのできるような連中でも無いのだから。そもそも。
今後、低所得層からも税収を強制するのかも知れないが、ともかく今の税体系で回るだけの小さな政府を作る事が出来たならば、その後にニート対策することは、そこでの増収は政治が自由にできる税として回すことができる事になる。その段階になれば、景気対策も雇用対策も為政者にとって旨味のあるものになる。
投稿: 妙訝 | 2005年11月25日 (金) 03時44分
暫らく前から読ませていただいています。
何も出来ない私ですが、
出来ないなりに応援している者が
各所に居ると思いますよ。
投稿: けいしゃ | 2005年11月25日 (金) 08時20分
妙訝さん
そういう見方があるとは知りませんでした
ただ、低所得の家庭でもニートはいます
親のいない子供たちがニートになっているケースも少なくないことを取材をして知っています
企業は、派遣やパートの人を都合良く使い、正社員を守りすぎていると友人は話をしました
彼女が言うように、今の雇用形態がニートにつながっているとも思います
また、「働け」と言っている大人をよく目にしますが、私たち大人の姿を若者が見て、「あんな大人になりたくない」という迷いがあるのではないかと、ニートだけを責めることはできないんじゃないかと考えています
ニートの取材をした時に、『ニート』という言葉の概念がはっきりしなかったので、どういう人をニートと呼ぶかは問題ですが、誰かに寄生できる人ばかりではなく、今すぐにでも働きたいけれど、受け入れてもらえないとか、自分自身が精神的な壁を作ってしまうとかという人がいる以上、このまま放置していていいのかという想いはあります
投稿: ぁぃ | 2005年11月25日 (金) 11時43分
けいしゃさん
ありがとうございます
私が考えている報道機関のここが今の社会には必要とか、ここはマズいんじゃないかなど聞かせていただけるとありがたいです
投稿: ぁぃ | 2005年11月25日 (金) 11時46分
一時期、堀江貴文氏の著書を掻い摘んで読んで
騒いでいた人が「金で何でも買えると考える男」と
盛んに批判してましたが、堀江氏の言いたいのは
実はそんなことではなかったらしいと後で知りまし
た。ぁぃさんがやろうとしていることにしてもお金が
無いとできないし難しいようで、率直に正しいのか
もと思ったりするのですが。
投稿: 某S | 2005年11月25日 (金) 13時03分
この世は金と暴力ばかりじゃないと思う。よく迷うが、正義と愛の道もあると強く信じている。あきらめないでいきましょう。
投稿: papa | 2005年11月25日 (金) 14時02分
はじめまして。
子どもたちが希望をもてる社会に
できるように、私も応援しています。
あんまり役にはたたないけど・・・
投稿: おこじょ | 2005年11月25日 (金) 14時20分
某Sさん
なるほどねぇ
ぉ金も運用次第ってことですよね
使い方によってはすごく世の中のためになりますもんね
何か考えさせられるゎぁ・・・
投稿: ぁぃ | 2005年11月25日 (金) 16時33分
papaさん
最後に正義は勝ちますか?
最後に愛は勝つとKANさんは歌っているけれど・・・
最期にぁぃは笑っていたい
投稿: ぁぃ | 2005年11月25日 (金) 16時35分
おこじょさん
応援だけじゃだめ!
子供たちの未来は、みんなで考えて
日常生活で当たり前のように暮らすことが、子供たちの将来につながることってあると思う
大人が子供たちへどんな背中を見せてあげられるのかってこと
投稿: ぁぃ | 2005年11月25日 (金) 16時37分
正義は最後に勝つが、私はその日まで生きるかどうか分からない。でも力がなくても正義をしようとする心が大事だと思う。
>最期にぁぃは笑っていたい
Chage & Aska の歌を思い出す。 ;^)
投稿: papa | 2005年11月25日 (金) 17時27分
「金と暴力で世の中が決まる」なら、ヤクザ屋さんが表立って
世界を支配していますよ。
現代社会は、そんな簡単な図式では動かなくなってます。
あと、正義は勝てますよ。少なくとも負けません。
「ああ、私は自分が正義だと思うことを貫いた。
勝てはしなかったが、戦い続け、負けなかった。」
最後の時にこう思える人を、誰も「負け」とは言えないでしょう。
まあ、「正義」なんぞ簡単に相対化されてしまう程度のものに
すぎませんが。
投稿: イケメン | 2005年11月25日 (金) 18時13分
今回の記事だけに限ったことではなく、これまでの流れ全体の中で思うことですが、「孤独になってもいい」というのと「仲間がほしい」という言葉に、私は非常に違和感を覚えます。ジャーナリズムも含めて、「表現する」という行為の根底には、「孤独になりきる」というのが、必須条件だと思います。「群れたい」とか「誰かに頼りたい」という甘えを断ち切ることからすべてが始まると、私は考えています。泉さんが始めようとしているビジネスに、私などがとやかく言える資格も義理もないのですが、ブログでだらだらと愚痴を並べ、それにちやほやと甘言を書き込んでいる読者(=アクセス者)の姿を見るにつけ、いつも「?」と思います。
投稿: 古川利明 | 2005年11月25日 (金) 20時23分
私は一時ひきこもり(ニート)になった事があります。
会社に勤めていたのですが、欝病になり部屋から出れなくなりました。治療で今は何とか復帰しています。
それこそ当事者にならないと分からないかもしれませんが、誰にでもニートになる可能性があります。
金と暴力の時代、グローバル化の圧力でそうならざるを得なかったのでしょうね。弱者救済に方向転換すると、今度はゼネコン等の地方にお金をばら撒いていた時代に逆戻りしてしまうのでしょう。
投稿: hogehoge | 2005年11月25日 (金) 22時46分
他人のあらを探して批判だけするのは一番楽なこと。
他人を理解して一緒に歩もうとすることは最も困難なこと。
古川さんと泉さんの大きな違いですね〜
投稿: どっちがいいのかな? | 2005年11月25日 (金) 22時48分
理解すること、批判すること。
どちらも必要な事でしょうね。
同じ事物を、表と裏から見たようなものでしょうね。
批判を受けて、自己を反省もし、
理解されて、勇気を貰い受ける。
どちらが欠けても、足りないものに為ってしまうでしょう。
投稿: けいしゃ | 2005年11月25日 (金) 23時18分
へいさしゃさん同感。
批判する”だけ”じゃなきゃいいのにね
投稿: どっちがいいのかな? | 2005年11月25日 (金) 23時45分
私も、愚痴は、感心しない。
というか、興味深くはあるんだけれども、ここにあることに、ちょっと違和感を覚える。
あいさんが「雑記」としているものは、そろそろ別ブログにした方がいいのかもしれない。
それくらい、Gripは「公」的な意味合いの強い場所になりつつあるのかもしれない。
でも、ブログの良さって「群れられる」ところにあると思うので。
ブログを使ったジャーナリズムを考えるあいさんは、一匹狼とは対極にいて正解なんじゃないかな。
構想が未だよく理解できないので、想像なんだけれども。
投稿: 美也子 | 2005年11月26日 (土) 00時32分
私は古川さんの意見に賛成です。
また、古川さんは批判だけしているわけじゃないと思うのですけど。
>ジャーナリズムも含めて、「表現する」という行為の根底には、「孤独になりきる」というのが、必須条件だと思います。
この部分は一つの助言じゃないのでしょうか。
それを安易に「批判だけ」と決めつけてまぜっかえす体質そのものが、まさに批判される甘言では?
本文についていえば、「社会に向けて何を訴えたいのか」がよく分からない文章ですね。それは取材じゃなくても雑記でも、ジャーナリストを考えるなら常に念頭に置くべき命題だと思うのですけど。
それがないのでただの愚痴と言われるのだと思います。
最後の数行の理由、壁に突き当たってもどうしてそう決意するのかの部分を、もっと掘り下げてまたしっかり言葉にして表現してみて欲しいです。
今まで散々言ってきたからではなく、さらにもっと別の言葉で、もっと深く。
投稿: Aa | 2005年11月26日 (土) 14時00分
ぁぃさんをみんなで批判し捲くると、穴掘って自分で
埋まってしまいそうなので怖いかも。でも、そろそろ
そんな環境にも適応してもらわないとダメだというのは
ここを見ている人が言いたいけど言えないことなのかも。
まぁ扱うお金が大きくなれば、そんな愚痴もでなくなると
信じたいですね。その前に、食べれているのか心配。
投稿: 某S | 2005年11月26日 (土) 14時07分
GripBlogさんには沢山のブロガーが元気を貰っている。
管理人は、泉あいさんであるが、GripBlog=泉あいさんではない。
コメントやトラックバックを含めた「開放系」ではないかと思う。そういう位相に、ネットやブログはあるのでは!
管理人としての立場では、しばしば「孤独」を感じることはあると思います。
しかし、「開放系」を目指そうとしている「GripBlog」(その延長としての報道メディア計画)は、泉さん個人を超えたものを目指しているのでしょう。
元気を貰ったブロガーが、「頑張って」「期待しています」「出来る事は応援します」と、元気を返す。
それで、いいのではないでしょうか。
投稿: 村田 | 2005年11月26日 (土) 15時17分
みなさぁ〜ん
私はジャーナリストも人間で、いろんな想いを抱えてますょってことをもっと出してもいいんじゃないかって考えていました
だがしかし、確かに愚痴はみっともないですね
しかも、今は愚痴ってる時じゃないし・・・
古川さんなりの激励、いつもありがたく受け止めています
今までだってあきらめずにやってきたし、やればできるしぃ♪という気持ちで取り組みます
できる限り努力はしますけど、自覚なしにブちゃった時は「ぉぃっ!」と突っ込んでください
本当にありがとうございます
投稿: ぁぃ | 2005年11月26日 (土) 23時48分
少し。
「世の中、所詮金だ」とか「世の中、金と暴力」とか、「結局強いものが勝つ」などと「紋切り型」に評することは、実際に良くされているし、何も違うことは言っていないわけです。ただ「違うことは言っていない」ということと、「それが真実である」ということの間の乖離もジャーナリストを目指すのであれば、泰然として見つめていただきたいと思います。
どなたかが言っておられたのですが、「世の中、愛と正義である」という別の言い方もあるし、「世の中、裏切りと友情だ」という言い方もある。「アメリカがガンだ」という言い方もあるし「イスラムが悪い」という言い方もある。それこそいろんな表現のバリエーションがある。
言葉の端的な表現で終始し、その後裏側を貫徹する視線を持たない評論は、僕はジャーナリズムの言説として敬意を払うことは出来ません。
どれも一理ありますね・・などとうなづいていたり、違うだろうっなどと喚きあうのは、私たち日常の場面では良くあることであり、愚痴にしてもこぼさない人間はいないでしょう。しかし、それであれば日常の人間として生きていればいい話であって、ネットであれ、既存メディアであれ、「ジャーナリズム」という言葉に込められている「気概」のようなものを、持っていただければと願います。
泉さんの魅力は正直にぶつかっている壁を壁ですと言ってくださるところで、そこにこのサイトの多くの読者が(含我)共感し応援しているわけですが、本質的なジャーナリストの姿勢は市井のこうした「紋切り型」の価値判断に、どれだけ切り込む力を持つか、どれだけ対峙する眼力を持つかという点であり、システムや金銭以前に大事な出発点ではないでしょうか。
そういう意味でやはり僕は泉さんには「世の中金と暴力」などという表現を、いまさら「壁」などと感じてはもらいたくはありません。
#確かに、あなたと私の生きている世界は「金と暴力」の世界かもしれない。
でもそれが何か?
投稿: BigBan | 2005年11月28日 (月) 12時35分