« 記者クラブの表と裏 【取材記1回目】 | トップページ | 記者クラブの表と裏 【取材記3回目】  »

2005年5月18日 (水)

記者クラブの表と裏 【取材記2回目】 

「記者クラブ」がどうやってできたかを先ずインタ−ネットで調べました
記者クラブが持つ問題点を取り上げているHPが多い中で、歴史が書かれている「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」を参照すると、「税金で設置されている記者室」と書かれてあり、そのことが私の頭から放れなくなってしまいました
歴史については、いろいろと書かれていて理解することができましたが、記者クラブの種類について書かれている文献が見つかりません

そこで、まず電話をしたのは「日本新聞協会」
田中良紹著「メディア裏社会−語られざる巨大マスコミの暗闘史」には「我が国で記者クラブに入会する資格を得るためには、新聞百十社、通信四社、放送局三十三社が加盟する日本新聞協会のメンバ−にならなければならない。」と書かれています
ところが、返ってきた答えは、
「うちでは調べていないのでわかりません
日本記者クラブさんに聞いてみてください」
というものでした
私は事前に「社団法人 日本記者クラブ」について調べていましたが、内閣府大臣官房政府広報室に所管され、取材というよりは懇親会のような機関だと認識しています
『ほんまかいな』と思いながらも、日本記者クラブ賞を授与している機関だから全国の記者クラブを把握しているかもしれないと日本記者クラブへ電話してみると、
「うちではわかりません」
と言われ、日本新聞協会でこちらに電話するように言われた旨を話すと、
「あら、今、日本新聞協会さんに聞いてみてくださいと言おうと思ってました」
とお互い苦笑です
せっかく電話したのだからと、
「日本記者クラブさんは内閣府大臣官房政府広報室に所管されていると内閣府のHPに書いてありますが、税金で運営されているのですか?」
と質問してみると、
「いいえ、そんなことはありません
会員になっている会社から出ています」
と、税金で賄われていないことがわかりました
結局、全国に存在している記者クラブを網羅している機関はなさそうです

木村文さんの「新聞のニュース・ソースと記者クラブ 慶應義塾大学文学部図書館・情報学科平成11年度卒業論文」には、「①警察などの捜査機関にあるクラブ、②中央省庁から県庁、市役所など地方自治体の役所にあるクラブ、③経済団体など民間の企業を相手にしているクラブ、④東京大学などをはじめ大学に設置されているクラブと大別して4つくらいのパターンがある。」と書かれています
①②③は予想範囲内でしたが、大学に記者クラブがあるのは意外で、「大学ってそんなに発表するようなことがあるのかしら」と疑問に思った私は、東京大学へ電話をかけました
すると、大学内の記者会には各会社のデスクが置いてあるものの、記者たちは入れ替わり立ち代りいたりいなかったりで、誰もいないこともあるそうです
プレスリリ−スは、文部科学省の記者会と科学記者会、大学記者会へFAXで流すそうです
記者クラブがどんな空間なのか想像する上では、面白い情報を得られました

記者クラブの運営に税金は使われているのか、次に電話したのは都庁
「都庁の建物の中の場所を提供しているということで、広い意味では税金が使われているということになるのかもしれませんが、高熱費や通信費はいただいております」
ということで、税金を使っている記者クラブがあるのかどうかは、ひとつひとつ調べていくしかなさそうです

ちょっと意地悪な発見もありました
「ウィキペディア」の歴史の欄に書かれていることは、黒岩祐治 他著「マスコミ改革を考える」の丸写しという感じで、しかも年号が1880年と誤りがあり、正しくは1890年です
「ウィキペディア頼りないな」と感じた瞬間です

明日からは、記者クラブについて考えている人たちの声を聞くべく、元記者クラブに属していた人、現在記者クラブで仕事をしている人などへアポイントを取りにかかります
その間、今まで集めた多くの資料を読み直しながら、記者クラブの功罪について考えてみたいと思います

    【 覚書 】

  • 記者クラブの定義
    亘 英太郎著「ジャ−ナリズム『現』論」には、「研究者やメディア団体によってさまざまの定義がある。」とした上で、
    「取材、報道する価値のある情報が大量に集積し、日常的に接触が必要な特定の対象(ニュ−スソ−ス、官民の組織・機関)を担当する記者が集まり作った親睦と取材・報道のための自主組織。」
    と、記者クラブ体験に基づいて定義付けている。
  • 記者クラブの誕生
    参考:村上玄一著「記者クラブって何だ!?」、亘 英太郎著「ジャ−ナリズム『現』論」、社会新報記者・柳原滋雄「月刊社会党」(1995年9月号)掲載「記者クラブ制度を考える」、日本新聞協会研究所・林利隆「総合ジャ−ナリズム研究」(1986年4月号)、現代ジャ−ナリズム研究会編「新聞報道[検証]SERIES 記者クラブ」

    1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法と皇室典範が発布され、衆議院法や貴族院令も公布されたが、当時の新聞記者は、これらの憲法や法律などがどのようにしてつくられたのか、その内情を知ることができなかった。
    1890年(明治23年)11月29日、日本で最初の第1回帝国議会が開設された際に、国による統制に対して傍聴取材を求める記者たちが「議会入り記者団」を結成したことに始まるとされている。
    これは静岡県立大学教授・前坂俊之さんの論考で、この記者団には「郵便報知」「東京朝日」「都新聞」「読売新聞」など東京の主要紙が加わり、これが発展して、この年の10月に「共同新聞記者倶楽部」が誕生したとされる。
    これは後に「同盟新聞記者倶楽部」に名を変えたが、帝国議会開会中には全国の新聞183社、300人以上の記者が取材に集まったという。
    これが今の「記者クラブ」の前身である。

    この説の他に、これより以前に「記者クラブ」的なものが存在していたと一橋大学教授・山本武利さんが指摘する。
    明治維新の後、明治大帝は明治5年の第1次巡幸を皮切りに、日本全土を縦横断する。だれが統治者であるかを下々に宣伝するためのデモンストレ−ションだったわけだが、そのとき記者団も随行したと1876年の新聞にすでにその記録が見られる。
    記者は登録制とされ、選ばれた者だけが随行を許可され、記者たちは控え室で待ち、宮内庁の係員が来て、記者はニュ−スをうやうやしく受け取って記事にするという、情報は奪い取るものではなく、上から与えられるものだった。

    さらに遡って新聞界の故老の生前の笑い話と伝えられるような証言もある。
    「昔は新聞記者といっても、ワラジばき弁当持ちでタネをさがして歩いたものだ。その連中が毎日時をきめて、丸の内の原っぱの大きな木の下に集まり、弁当を使いながら情報を交換し合ったという話がある。これが記者クラブの発端だろう。」
    しかし、その時期はいつと特定できない。
    また、明治新政府誕生直後は、法律、布告の類いのいわば発表モノですら、当時の記者が直接入手する機会を与えられなかったというから、情報交換のタネは、官庁情報というよりは市井の出来事、人事消息が主だったかもしれない。
    今でこそ大手新聞社の記者は「エリ−ト」と言われるかもしれないが、新聞記者は「文屋」と言われどちらかと言えば蔑まれた存在だった。
    広告を取りながら記事を集めたり、「揺すり」「集り」も日常茶飯、ヤクザっぽい世界で、昼と夜の区別もなく、「文屋」と聞いただけで、下宿屋は断っていたそうだから、世間の嫌われ者でもあったのだろう。

  • 記者クラブの歴史
    参考:現代ジャ−ナリズム研究会編「新聞報道[検証]SERIES 記者クラブ」、黒岩祐治・野田清行・宮沢徹甫・熊坂隆光著「マスコミ改革を考える」

    1894年(明治27年)の日清戦争から1902年(明治35年)ごろにかけて、外務省の「霞倶楽部」、農商務省の「采所クラブ」、陸軍省の「北斗会」、政友会の「十日会」と次々に生まれ、さらに1905年(明治38年)には司法省の「司法記者倶楽部」、1907年(明治40年)には内務省の「大手倶楽部」、1910年(明治43年)には「兜会」が組織されたが、まだまだ新聞のイメ−ジは悪く、政府も省庁も、記者たちを車夫、馬丁と同様に扱っていた。
    記者室も玄関先の控え所にちっぽけな場所を与えられただけだった。

    1912年(明治45年)明治天皇逝去にともなう報道で、最も秘密主義の強かった宮内庁に現在の宮内庁記者クラブの前身である「坂下倶楽部」が宮内省に常駐が認められた。

    歴代内閣で初めて共同記者会見を行ったのは大隈重信内閣だが、それまでふたつの内閣が新聞によってつぶされて、その結果誕生したといわれた大隈内閣だけに、記者会見だけではなく、首相官邸内に初めて記者クラブを新築した。

    大正時代から昭和10年代にかけて、現在とほぼ同じ記者クラブの原型が形成された。
    しかも、当時「東京日日」(現毎日)の鈴木茂三郎の「新聞批判」をみると、記者のゆすり、たかりや官庁や業界との癒着など、記者クラブのあり方がすでに問題となっている。

    1941年(昭和16年)社団法人新聞連盟が設立。
    全国に2千数百あった新聞は強引に整理統合され、新聞連盟の下部機関として位置づけられた記者クラブも、「一官庁一クラブ」に改組され、規約も統一、自主的なクラブ運営は一切認められなくなった。
    太平洋戦争中の報道のシンボルと化したのは大本営発表で、ウソの代名詞ともなったが、「黒潮会」は当時の海軍省の記者クラブで、新聞記者の花形クラブでもあった。
    当時の黒潮会担当記者は、「われわれはただ報道部の大本営発表を、機械的に右から左へ、国民へ知らせるだけのものなのだ。そこにいささかの批判も許されない。」と述懐している。

    戦後記者クラブは、GHQ(連合国軍総司令部)の指示で、親睦団体と位置づけられた。
    1949年(昭和24年)10月に出された「記者クラブに関する新聞協会の方針」では、「記者クラブは各公共機関に配属された記者の有志が相集まり、取材上の問題には一切関与せぬこととする」と規定した。
    親睦機関と割り切ったものの、現実は取材機関としての記者クラブのあり方との矛盾が露呈し、日々の取材のなかで、取材先との「黒板協定」や「紳士協定」といった取材、報道そのものの自由を規制、制限する協定が相次ぎ、日本新聞協会は1962年(昭和37年)7月再び「記者クラブの協定に関する方針」を出した。
    これを見ると、「取材上の問題には一切関与せぬ」として記者クラブを親睦機関と位置づけた1949年の方針からの全くの逸脱であった。

    1960年代から1970年代にかけて、新聞協会の討議では「親睦機関」か「取材機関」かをめぐっての激しい綱引きがあり、1978年(昭和53年)10月「記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解」が現在の記者クラブや報道協定の指針とされ、そこでは取材、報道の調整的機能をはっきりと認め、統制的性格がより一層強く打ち出された。

    1997年12月、新聞協会は、記者クラブについて「親睦機関」という位置づけを公的機関が保有する情報へのアクセスを容易にする「取材のための拠点」と改めた。

|

« 記者クラブの表と裏 【取材記1回目】 | トップページ | 記者クラブの表と裏 【取材記3回目】  »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。