休止のお知らせ
いつも応援ありがとうございます。
1月からはじめて、ただガムシャラに進んできましたが、日ごろの無理がたたって現在療養中です。
しばらく取材活動、執筆活動が精神的にも肉体的にも出来ない状況になってしましました。
本当に残念なのですが、しばらく休養します。
へたくそな文章と不甲斐ない取材活動を暖かく見守ってくださった方々、本当にありがとうございました。
そして、継続できずに中断する事、本当に申し訳ありません。
いつも応援ありがとうございます。
1月からはじめて、ただガムシャラに進んできましたが、日ごろの無理がたたって現在療養中です。
しばらく取材活動、執筆活動が精神的にも肉体的にも出来ない状況になってしましました。
本当に残念なのですが、しばらく休養します。
へたくそな文章と不甲斐ない取材活動を暖かく見守ってくださった方々、本当にありがとうございました。
そして、継続できずに中断する事、本当に申し訳ありません。
最近、募金と言うと「怪しい」とか「うさんくさい」とかってイメ−ジありませんか?
「黄色い拍子木」より
なんだか非常に胡散臭いですが、箱に小銭を投じる人々。
その番組では、募金はあるひとりの黒スーツ、白ベンツの男のところに集まっている事が暴露されていました。
おそらく浄財はこの薄汚い男のポケットに。
引用の中に書かれている光景は、多分テレビで放送されたものなんだと思いますが、実は私、「胡散臭いのは、クリック募金も同じなんじゃないの?」という疑問を持ったので、このテ−マに取り組んだのです
でも、取材を進めて行くうちに、最初に感じていたもやもやや違和感はなくなっています
クリック募金に取り組む方々が、クリックしたことによって何かにつなげて欲しいという信念を持って臨み、そのために大変な努力をなさっていると知りました
取材をしていて感じるのは、人の心です
それを『善意』とひとことで言ってしまうのは簡単過ぎると感じてしまうほど、心を感じるのです
きっと、最初は仕事として取り組んでいたかもしれない
だけど、今は仕事の枠を超えた想いが込められているという気がしています
1回1回に人々の想いが込められているクリック募金だから、「たかがクリック」とは決して思わないでほしい
寄付を受けた支援団体はその責任をどう果たすのか
クリック募金について考える私には、いつももやもやがくっついて来ました
クリック募金について書かれている個人のブログは山のようにあって、どこを見ても、
「いいことをした」
「善意だ」
「みんなもやってください」
と書かれています
確かに、支援を受けたい人の元へ、私たちに代わって企業が支援をしてくれているのだから、とてもいいことだと思います
だけど、クリックで終っていいの?
ただクリックをしただけで、それで「良いことしたぞぉ♪」と気分を良くしていいのかともやもやしている私はひねくれ者なのでしょうか
もうひとつ引っかかることがあって、クリック募金は、企業にとってはバナ−広告であるということです
結果としては、救いが必要な人の元へ経済的援助が届くから、ものすごく良いことなんだけど、募金という人々の善意が、ビジネスツ−ルとして使われているという現実に、「それってどうなの?」という気分になってしまうんです
すごく機能的なシステムだけに、これからブ−ムの予感がするし、これがどんどん流行ったら、ユ−ザ−はクリックすることで満足し、ボランティア活動に参加する意義を忘れてしまったりしないかしらと不安になったりもするのです
クリック募金を知った時、「なんて便利で機能的で、目からウロコだわ」と思うと同時に、「どうして大企業が、普通に寄付をするのではなく、クリック募金を選択しているのかしら」と不思議に思いました
どこかのブログに書かれていないかと探しまくりましたが、あっちこっちのHPで「クリック募金をしよう!リンクを貼ろう!」と呼びかけていますが、誰も疑問を感じていらっしゃらないようです
「こんな疑問を持つ私が不思議ちゃんなのか?」と不安になっています
ユ−ザ−がクリックした金額を募金する
そして、同じくらいの金額を仲介業者に支払う
どうして寄付ではなく、ユ−ザ−がクリックした数に合わせての寄付をするのか不思議に思いませんか?
仲介業者に支払う分も一緒に寄付したら、支援を受けたい人はもっと助かるんじゃないの?と考えるのが人情ってものだと思うのですけど・・・
クリックしたユ−ザ−に「いいことをしたぞ♪」という気分になってもらうためのクリック募金なのでしょうか
それとも企業のイメ−ジアップを狙った、実は腹黒いシステムなのでしょうか
それとも、私の知らないところで、ものすごく素敵なことが繰り広げられているという実態が、クリック募金にはあるのでしょうか
単純に寄付をするのではなく、クリック募金を選択している企業の本音を知りたいです
明日は、その辺を含めて、クリック募金を行っている企業2社に、クリック募金がもたらしたメリット・デメリットについて聞いてきます
企業の本音を探り出せるようにがんばってきます
最近「クリック募金」というものをインタ−ネット上でよく見かけるようになりました
「にわかブロガーのボラ★ろぐ 〜浜風版〜 」より
クリックするだけで無料で募金できるサイトがあります。↓とりあえず覗いてみましょう。
募金活動と言ってもお金は必要ありません。インターネットを介した新しいボランティアの形であるクリック募金。街頭募金で頻繁に協力できない私たちにも人差し指一本で救えるボランティアがあるのです。大げさかも知れませんが、遠いどこかの誰かのために、クリックするだけでできる募金です。
企業がクリックした人に代わってNPO団体に1円ずつ寄付をしますので、クリックした人がお金を支払うことはありません。
この引用の文章に付け加えるなら、ユ−ザ−が1クリックすると、企業は広告料の対価として1円を寄付し、もう1円をシステム料としてこのHPを運営している株式会社デイ・エフ・エフという会社に支払っています
企業もイメ−ジアップと広告効果もあり、困った人への支援にもつながるクリック募金
全く新しい形の募金活動が生まれて、わたしたちユ−ザ−は、気軽にそして気楽に募金に参加できるようになりました
ユ−ザ−、企業、NPOなどの募金活動をしている団体、支援を受ける人たち、そして間に入る会社
これら全ての立場の人たちに、クリック募金は、以前と比べてどういうメリットとデメリットをもたらしたのか、いろいろな立場の人にお話を聞いてみようと思います
善意がビジネスとして成り立っている新しい形の募金の現状を知ることで、今後、私たちユ−ザ−はどう係わっていけばいいのか考えてみたいのです
「老いの時を前向きに迎えよう」東京都知事 石原慎太郎 (東京都発行「くらしいきいき介護保険」より)
老いを拒否したり、防いだりすることのできる人間など、この世には存在しません。
ならば、それを覚悟して、自らの老いを真正面から見つめて立ち向かっていく方が、自分なりの正確な理解や準備や対処が有効にできて、老いていく中でも、予期した以上の充実や満足もあるはずです。(中略)
たった一度の人生、老いてもなお楽しみを探し、美しいものに感動する心を大切にしようではありませんか。人生の経験を重ねてきた人間としての意識を持って、老いをしっかり見つめて味わうために、医療や介護保険など、老いを支えるために進歩してきた知見や制度を、的確に活用することです。
私は、都会でひとり暮らしをしながら、将来への不安を日々感じています
石原知事の言葉の通り、老いておくことを食い止めることはできません
目がかすみ、耳が遠くなり、歯は抜けていく
骨や筋肉が弱まって、腰が曲がり足は上がらず、鼻水を垂らし、時には失禁さえしてしまう
そんな自分を想像しては、おびえています
シングルで生活している自分の将来を考えると、誰にサポ−トを頼むべきなのか、いや、サポ−トしてくれる人が果たしているのかと、恐くて仕方がないんです
施行されてから5年経った介護保険
介護保険の実情を知れば、自分の将来設計が具体化できるかもしれません
税金で賄われていた措置と言われる頃と比較して、どこが良くなったのか
何が問題で、どう変えていく必要があるのか
現状を探ってきました
今日の私はおでん隊
老人ホ−ムで『居酒屋』と称するイベントで、おでんの仕込みと配膳担当の受け持ちです
ボランティアをさせていただいて、介護保険の利用者でる方たちの暮らしぶりをのぞいてみました
夜の楽しい居酒屋の前に、午後に開かれた年2回のデイサ−ビスセンタ−を利用されている方の家族懇談会にも同席させていただきました
ご家族の方が不安なのは、決まっていないことが新聞等で報道されている介護保険の改正後そうなるのかという点です
新聞には「こんな風に改正されるらしいですよ」と書かれているけど、じゃあ自分が住んでいる地域では、実際どの部分が変わるのかと質問してみても、施設では決まっていないことを無責任には回答できません
とは言え、生活に密着していることなので、少しでも不安を解消できるようにと、施設長が新聞のコピ−を使って説明をしていました
「決まってないことは答えられない」と最初に言われているので、質疑応答の時間になっても、会場内は静まりかえっています
質問しようにも、どこまでを聞いていいのかわからないと言った重苦しいが空気流れるだけ
家族の方たちも、施設の方の最大限の努力を承知なだけに、どこに不安をぶつけたらいいのかわからないといった感じです
新聞には詳しく書かれているのに、決定事項ではないなんて、納得いかないが不満を受け入れてくれる場所ない
それでも、介護保険はしっかりと施行されていて、日本人はおとなしい国民なのかもしれないと切なくなりました
昨日は、ヘルパ−さんが奉仕の心に欠けているというお年寄りの声や、『報道ステ−ション』で介護保険を不正に請求している悪質業者についての特集を見たので、当事者であるヘルパ−さんや事業所の方に話を聞いてきました
話してみると、『なんだか損な役回りだな』という印象です
ヘルパ−さんは『お手伝いさん』扱いをされ、真面目にやっている施設でも不正をしたと言われるという現実
しかも、報酬がそれに見合っているとはとても思えない状況です
特にヘルパ−さんのほとんどがパ−トタイマ−だということが私を驚かせました
完全歩合制なので、利用者さんが減ると収入も減ってしまいます
その利用者さんというのが高齢の方ということもあり、ヘルパ−さんの収入は安定していません
「それでは、ご結婚なさっている方とか、独身でもご両親と実家に一緒に住まわれている方しか、このお仕事は続けられないということでしょうか?」
という私の質問に、
「続けられませんねぇ・・・」
と小さくつぶやいたヘルパ−さんが、とても切なかったです
介護保険の現状を知りたくて、おじいちゃん、おばあちゃんを探して公園に行ってみました
木々が揺れる音や鳥たちの声が、空から降り注がれているようで、顎を突き出して眩しい空に目を凝らすと、違う世界にいるようです
風はすっかり春の香りで、私は『やっとダウンジャケットをクリ−ニングに出せる』と所帯じみたことを考えたりもするのです
私の大好きな水鳥「カイツブリ」が、5羽の家族でこちらを見ています
通りすがりの大人たちが、よちよち歩きのこどもたちに「こんにちは」と声をかけて、犬はベンチに3匹並んでお休み中
公園内のテ−ブルは、将棋を囲む老人たちでいっぱい
こっちの池はカメラを抱えたお年寄りのサ−クル、あっちの池は絵を描いている人たちが集まり、向こうの池では釣りを楽しみ人が笑っています
取材で来た公園でしたが、今日はほっと一息ついた気分です
ひとりで散歩していてもひとりじゃない気がする
スペシャルオリンピックスで長野に行った時の感覚が甦って、今日の私は、多分にこにこしていたと思います
水鳥にカメラを向けていると、
「水面を撮る時は、もっと近づいた方が光がきれいに写るよ」
と通りすがりのスナフキンのような男性からアドバイスをいただいたり、偶然声をかけた人が、日本人なら誰でも知っている有名な辞書を作った人だったりと、うれしいハプニングもあった今日の取材活動でした
胸が痛んだのは、足が折れ曲がった1羽のカラスの姿です
こんな陽だまりも現実で、同時に介護保険が必要な人がいるというのも現実なのですね
今日は朝から確定申告のために、税務署へ行ってみました
去年自分が支払った1年間分の医療費の額を改めて出してみて、びっくりこいちゃいます
それでも返ってくる金額はごくごくわずかで、この先年齢を重ねていったらどうなっちゃうのかと、老いに対する恐怖を感じました
思い出すのは、前回の取材で得た介護保険制度に関する答え
商店街で働く方が、ご自分の母親の介護のために働けなくなり、介護保険の金額も少なくなってしまったと嘆いていました
介護保険という言葉もあまりよく知らない私でしたが、どうも人事ではなさそうです
私はおばちゃんですが、女です
この「Grip Blog」の活動をしている時は、女性である自分を捨てているつもりです
でも、私は、とても女です
だから、今日みたいなホワイトデ−は、私にとってつらい一日です
好きな人はいます
私の夢も理解してくれて応援してくれているけど、2人は大きくすれ違っています
私が欲しいのは、夢を理解して応援してくれるなんて大きいことじゃない
ただそばにいて欲しいだけ
自分が浅はかだってことはわかってるけど、本当に欲しいのは、忙しいだろうかと気を使ってくれることなんかじゃない
そんなものじゃないんです
テレビ、新聞、雑誌、ラジオという古くからあるマスメディアに加えて、インタ−ネットという新しいメディアが定着して、ますます情報があふれる中、人々はどのような情報を、どのメディアから得たいと思っているのか調べてみました
先ずは基本に返って、自分の足を使い、ひとつひとつ答えを拾って歩くために、東京の街(丸の内、有楽町)へ出てみました
そこは企業に係わる人たちでいっぱいです
サラリ−マンにOL、それを目指す学生とそれを引退したお年寄り、そして、サラリ−マンを癒す夜の蝶
彼らの関心は、お金に集まっていました
どの株、どの土地を買えば、儲かるのか
マネ−ゲ−ムの達人であるライブドアの堀江さんの報道の影響なのでしょうか
「ト〜フ〜♪」
雨の商店街にお豆腐屋さんの笛の音が響いています
11年前、東京に出てきてすぐ、私はこの街に住みました
結婚後の新居が決まるまでのたった数ヶ月間でしたが、はじめての東京でのはじめての街で、私にとっては特別な場所です
あの頃は、この音を聞くと、ボ−ルを持って、よくお豆腐を買いに出てきました
真冬でも半そでのシャツを着ているおじさんのズボンのシャックが、いつも半分開いているのを言うべきかどうか、毎回悩んでいたのが懐かしいです
懐かしいおじさんの顔が見たくて振り返ると、おじさんではなく、若いイケメンのお豆腐屋さんがいました
おじさんの半そでのシャツが汚くて、よく姑が笑っていたけど、一生懸命お豆腐を売っているおじさんの姿に、なんだか応援したい気分にさせられて、よく買ったものです
『真面目だけがとりえです』と光る後ろ頭が語っていたあのおじさんが、誰にもだまされることなく、今も元気でいてほしいと思います
そういえば、あのおじさんの笑った顔って見たことがなかったなぁ
今日は、私の数少ない人脈を引っ張り出して、普段からジャ−ナリズムに深く係わっていらっしゃる方たちに質問してみました
一日で聞いて回るのは無理なので、今日は電話で聞いた覚書になります(お会いできた方も数人いらっしゃいます)
昨日の街行く人の声と比較すると、仕事に密着した内容のお答えが多いようでした
そして、プライベ−トでは、「日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA) 」(JAPAN VISUAL JOURNALIST ASSOCIATION)主催のシンポジウムに行ってきました
すごく刺激的で、興味深く、おなかがよじれるくらいおかしかったり、背筋が伸びて、どきどきしちゃったり
そんなシンポジウムでした
私事で申し訳ないのですが、週末から体調を崩しておりましたので、今回のテ−マを3日間で取り組むことになりました
自己管理できなかったことを反省しつつ、「Grip Blog」をはじめて2ヶ月、ここで初心に帰りたいと思います
代表は情報化社会の現在、本当に信頼できる情報はWEB上ではなく人と人が対面して言葉で話すもの。これからの社会で一番大切だと語った。
「2005年スペシャルオリンピックス冬季世界大会−長野」HPより スペシャルオリンピックス(略してSO)は、知的発達障害のある人たちに、様々なスポーツトレーニングと、その成果の発表の場である競技会を、年間を通じて提供している全世界的な活動です。 SOでは、これらのスポーツ活動に参加する知的発達障害のある人をアスリートと呼んでいます。SOが提供する継続的なスポーツ活動は、アスリートたちの健康や体力増進、競技力の向上を促進するだけでなく、多くの人たちとの交流は彼らの社会性を育んでいきます。適切な指導と励ましがあれば、アスリートは少しずつでも確実に上達し、自立への意識を高め成長していきます。
「この子の笑顔がなくならないように」
知的発達障害を持った方たちを取り巻く人が、皆、口をそろえて言った言葉です
今大会の表彰式の時には、客席からカメラを構える私のことをフロアから見上げ、初対面の私にいっぱいの投げキッスをしてくれ、何語かわからない言葉でしきりに話しかけてきます
手を振り拍手を送り、思いっきりの日本語で、
「おめでとう〜♪」
と叫んでみます
「ありがと−!にっぽん」
と手を振り、また投げキッスを返してくれるアスリ−トたち
英語がしゃべれないことなんて関係ない
知的発達障害なんて関係ない
私たちは、同じ人間同志で、彼らはスポ−ツで私に感動を与えてくれました
そして、彼らは拍手と「おめでとう」という言葉に讃えられ、体いっぱい喜んでいました
テレビや新聞の報道では、表彰式でのスリ−トたちの笑顔に光が当てられます
当たり前のことですが、この人たちは、この大会だけを生きているのではありません
この大会期間中だけ笑顔でいられても、社会に戻った時、涙するようなことがあってはならないのです
私は、この取材をはじめた時、この大会がいろいろな人の情熱に支えられたすばらしい大会だということを訴えるつもりでした
そして、いろいろな人に会い、お話を聞き、長野に行き、競技も表彰式も見て、知的発達障害の人にとって、この大会が全てではないと気づいたのです
世界大会だと浮かれて長野に行った自分が恥ずかしくなりました
障害を持って過ごす日常が、彼らの笑顔の裏にはあるのです
知的発達障害を持つ人が笑顔でいられる社会とは、どんな社会で、スペシャルオリンピックスは、その社会を作るためにどう役立ったのか考えてみます
3/5(土)
行き交う人が挨拶してくれたり、ほほえみかけてくれたり、気軽に話しかけてくれる長野から帰京して一変、当たり前のことですが、どこも変わっていない東京、すれ違う人が誰もほほえみかけてくれない東京に愕然としました
当たり前のことに完全に落ち込みながら、スペシャルオリンピックス冬季世界大会の開会式に「ラブジャンクス」のメンバ−として参加なさった方のお母さまにお会いしました
とても明るいお母さまで、元気をいただきました
20歳のダウン症の息子さんは、高校時代バスケットから大好きで、学校を卒業してしまうと、スポ−ツする機会がなくなってしまうので、スペシャルオリンピックスのプログラムに参加しようかと書類を取り寄せました
医師の診断を受けるの必要があるので、それが面倒だなと思いながらも、書類に記入までしていた頃、日本ダウン症協会を通じてダンスに出会われたそうです
ホストタウンプログラム
ホストタウンプログラムで、2人のアスリ−トたちを受け入れたホストファミリ−の方にお話を聞いてきました
宿泊日の2ヶ月前に、同じ地区から2軒で、4名のアスリ−トを受け入れてほしいと長野市から要請があったそうです
私がインタビュ−した方(表現しにくのでAさんとします)は、その地区の区長だし、ご夫妻がボランティア精神にあふれていらっしゃる方なので、1軒はご自分のお宅ということですぐに決まったそうです
ところが、あともう1軒がなかなか決まりません
頼みに行っても、「自信がない」「夜眠れない」「ごはんは作れない」などの理由で、ご主人はOKなんのですが奥様に断られました
実際にいろいろと動いて面倒をみるのは女性なので、ご主人の協力がないと断らざるを得ないという事情は、同じ女性として理解できます
理解できないのは、
「アメリカのきれいな女ならいい」
なんてことを言った人で、優しいAさんも激しい口調になりました
「一般の人たちはわがままだよ
スペシャルオリンピックスに対する意識が、日本では低いんだよな
スペシャルオリンピックスはオリンピックじゃないんだ
『ス』に意味がある
勝ち負けではないんだよ
国際理解とか障害者、健常者を理解したり親睦を深めるなど、いろいろな意味が込められているんだよな」
「電子空間の旅芸人」より
お金が無くても、たとえ障害があったとしても、人生を楽しんでいる人は沢山いる。幸せとは、その人の心の持ちようだと思う。私は与えられた環境の中で、精一杯生きている人が好きです。
スペシャルオリンピックスで競技を見ている時、選手たちに障害を感じることはほとんどありません
フィギュアスケ−トで「おっとっと」とコケそうになっている選手も、私の何倍も上手です
地元に住んでいる私の伯母が家事をしている間、聞いていたラジオ放送の中で、スペシャルオリンピックスを取材する海外の取材陣たちが、
「日本ではハンデがあるとかないとかと表現することにびっくりしている」
と言ったそうです
ハンディキャプになっているのかいないのかなんて、他人が決めることではないのかもしれません
先週今週といろいろな方とお話する時、「障害がある方」という言い回しがベストなのかと戸惑っています
ちょっとこだわりすぎなのかもしれませんが、もっと適切な言葉が見つかればいいのにと思います
2/28(月)
フロアホッケ−とフィギュアスケ−トを観戦してきました
フロアホッケ−はホワイトリング、フィギュアスケ−トはビッグハット
長野駅からは、路線バスで移動する以外に手はありませんが、とにかく本数がありません
私は朝、スペシャルオリンピックス長野の事務局が入っているビルの中にあるメインメディアセンタ−に用事があったので、そこからビッグハットまでは徒歩で行けます
どの会場でも共通して言えるのですが、メディア関係やファミリ−、ボランティアなど、クレデンシャルを持った人の出入り口はとても目立ちますが、一般観客は、どこから入ればいいのかとてもわかりにくいです
開会式の時、エムウェ−ブでたらい回しにされているので、余計に気になるのかもしれませんが、長野市内のあちこちで大会への不満が聞こえるようになりました
ビッグハットからホワイトリングへ移動するにはどうすればいいのか、インフォメ−ションで聞こうとすると、他にも数名同じように質問なさっていました
「有り得ないだろ」と思うくらいの不便さに、どの人も閉口気味なのですが、中にはブチギレおばちゃんもいます
「なんや、ボランティアのための大会って感じやわ
一般の客は見たらあかんって言うような
だいたいボランティアの数が多すぎんねん
タクシ−乗ろうたって、ボランティアの人に聞いても、『タクシ−乗り場?知りません』言うしな
ほんまボランティアのための大会やわ」
(その通り〜♪)と心の中で拍手しながらも、おとなしく(こりゃ、タクシ−で行くしかなさそうだ)と判断しました
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